第207話 ためる

百姓雑話

今から35年ほど前、電子部品を製造する会社で5年間ほど働いていたことがある。週休2日であったが、入社2年目から特定の仕事を任された関係で残業と休日出勤が常態化し、基本給は安くても手取りの給料は悪くなかった。事業所が田園地帯にあり敷地内の寮に入っていたため、お金を使う機会がほとんどなく、5年間で500万もたまった。

会社を辞めようと決めた時、そのお金をどう使うか思案した。実家は特にお金に困っていなかったので仕送りする必要がなく、自分の結婚資金や家のローンに充てる気もしなかった。いろいろ考えた結果、生態学と微生物学を学ぼうと理学部に入った。

学校に通っている間、まったく働かなかった関係で、1年後、預金通帳には100万ほどしか残っていなかった。先々のことをあまりくよくよしない私でも、その時は途方に暮れた。それでも、「江戸っ子は宵越しの金は持たねーよ」的な甘い考えが染みついていた私は、その後、あまり金にもならない民間の難民救援団体に参加した。

ところで、先週の日曜日から農園関係者などで勉強会を始めた。最初のテーマは「どうして日本の農業は衰退してきたか」というもので、2時間も意見交換した。「なぜ、採取に頼っていた縄文人が米を栽培する弥生人にとって代わられたのか」という話しになり、「木の実や魚介類などよりも米の優位性がそうさせた」という理由に落ちついた。米は半年もあれば安定的に収穫できる。カロリーが高く、おいしい。そして、貯蔵性が優れている。米や麦などの穀類の突出する利点はこの貯蔵性に優れている点であり、人類の今があるのはそのためでもある。

つまり、私たちの「今」は「ためる」ことで実現したと言えなくもない。そして、ほとんどの人々が「ためる」に囲まれ、虜になっている人も少なくない。食料や水をためる。石油やエネルギーをためる。財産や利益をためる。ゴミや核の汚染物質をためる。コレステロールや内臓脂肪をためる。ストレスをためる。拡大し続ける貧富の格差や差別に対して不満をためる。・・・・・・・・・・・。あたかも、「ためる」ことが人生の、この世のすべてであるかのような現実が厳然と存在する。経済のグローバル化とIT革命によって、文明国、あるいは先進国と言われている国々に共通していた「ためる」文明が、今や世界中に浸透した。もし「ためる」を放棄したり否定しようものなら、貧困が心身を蝕み孤独や死が忍び寄ってくる。

かつて、私はタイに住んでいたことがある。そこでは毎朝、質素な服装の僧侶たちがいたる所で托鉢していた。富める者も貧しい者も、都会でも田舎でも、僧侶に食べ物を施し、来世のために功徳をつんでいた。

今から30年以上も前に見た、あのタイの光景は一体どうなったのだろうか。「ためる」文明は一体いつまで続くのだろうか。

(文責:鴇田 三芳)