第268話 光の時代

百姓雑話

立春を過ぎた。まだまだ寒さは続くものの、春の兆しが日差しの中に見え始めた。待ちに待った春までもう少し。雪の心配がなくなる春分の日までの辛抱だ。

季節感が鈍った人間たちとは違い、自然の生き物たちは季節の移ろいを敏感に感じている。陽だまりの梅の花はほころび始め、菜の花の蕾(つぼみ)が今にも咲こうとしている。自然相手に仕事をしていると、古代エジプト人が太陽を神と崇めた理由がよくわかる。たぶん、ほとんどの古代文明は太陽をすべての始まり、根源的な存在と思っていたことだろう。

私たちが目にする生き物はほぼすべて、太陽光を利用して葉緑体が行なう光合成によって命をつないでいる。食べ物はもちろん、家などに使われる木材も光合成の産物である。石炭や石油なども太古の昔、気が遠くなるほどの時間をかけて生き物たちが太陽光から作ったものである。

ところが、産業革命が興った頃から、先進国の人々は日常の中で太陽の恵みをあまり意識しなくなってしまった。農業を中心とした中世までの社会から、工業や交易をおもな糧とする社会に移行し始めた頃である。主力産業が第一次産業から第二次産業へ、そして第三次産業へとシフトする中で、太陽の恩恵を実感しにくくなったからかもしれない。

そして現代では、太陽光が邪魔者扱いさえ受けている。どこの建物も、遮光され、昼間でもこうこうと蛍光灯やLEDが輝いている。かつて日焼けは健康のバロメーターなどと言われ日焼けサロンが賑わっていたが、そんなブームは皮膚ガンのリスクに弾き飛ばされてしまった。

しかし、時代はゆっくり変わりつつある。環境汚染や温暖化、原油価格の高騰が追い風となり、スリーマイル島やチェルノブイリの原発事故をきっかけに、太陽光による発電が急速に増えてきた。また、今世紀に入り世界中をくまなく網羅するインターネットも、今や光ファイバーなしでは機能しなくなった。コンピューターも将来は、電子回路ではなく、光回路で動作するかもしれない。

「今世紀は光の時代になる」と、期待も込めて、私は予測している。

(文責:鴇田 三芳)