物心がついた昭和30年代は、私の故郷兵庫県飾磨郡(今は姫路市)でも戦後の貧しさが残る時代でした。ご飯は白米と麦が半々で、肉といえば筋の入ったクジラがほとんどです。おやつは庭先のカキやグミといった自然のおやつで、隣村の雑貨屋の甘いお菓子など数えるほどしか口にしなかったように思います。
でも、小学校上級生のころに少しずつ世の中が変わってきたのを覚えています。まず、隣の農家が耕耘機を買い、キュウリを共同出荷するようになり、養鶏を始める農家も出てきました。その反面、農業をやめて製鉄所に日雇いにでる村民も増えてきたことに子供ながらに大きな変化を感じていました。
しかし村の中では、子供会や青年団活動も活発でした。学校での運動会や学芸会にも多くの村民が参加し、褒められたり、冷やかされたりしたのを覚えています。田植えも稲刈りも隣組がいつも一緒に助け合っていました。老人も、朝早くからの草刈りだけでなく、稲わらで縄や蓆(むしろ)をない、また正月や祭りの準備では欠かせない存在でした。
国際協力を担う人材になることを志し、大学では開発途上国の開発問題に関心を深めていきました。大学を卒業する前にどうしても途上国の現状を知りたくて、初めて海外に行ったのはインドでした。ビハール州のガンジーアシュラムで1年間実習し、滞在中何度も近くの農村を訪れる機会がありましたが、何度か訪問するうちに、昔の子供時代の記憶と共鳴することが多くあることに気づいたのです。
以来、開発途上国での勤務を重ねるごとに、開発もしくは発展の本質的な目的を常に自問自答している状態でした。自動販売機のジュースより、バングラデシュの農家の庭先で飲んだココナッツの方がおいしい味がしました。どんなに高価なプラモデルより、ケニアの父親が作った小さな弓矢の方が子供を確実に成長させます。
今や日本は戦後70年を迎え、日進月歩の技術革命は大変便利な社会を作り出しました。国際社会でも大きな責任を持つ先進国となり、日本の発展をモデルとする途上国も多くあります。しかし、日本のどの時代の、どのような発展形態をモデルとしてもらうのか、成功事例や失敗事例の検証を含め、あまり明解な議論もなく他国の発展に関与してきた気がします。
日本は現在さまざまな社会問題に直面しています。なかでも、高齢者問題や地方の過疎化、そして混迷を極めた農業問題は深刻です。このような状況にいたる過程で発展の代償として失ったものがあるとすれば、それは何なのか。農作業に汗をかきながら、大地に、社会に、それを問いかけてみたいと考えています。
(文責:大塚 正明)