東日本大震災の復興支援のため海外から多くの支援を受けましたが、アフリカからも青年ボランティアたちが来日し、東北各地で復興支援を手伝ってくれました。そのメンバーの一人であるタンザニア人女性は、岩手県遠野市で3ヶ月間のボランティア活動に従事し、狭い農道まで舗装された日本の道路や停電のない電気事情に驚いていました。滞在中多くの友人もでき、自然に恵まれた遠野の生活を楽しんでいましたが、帰国前の報告会で「日本の老人はかわいそう。タンザニアの老人の方が幸せだと思う」と言い切ったのです。また、ほかのアフリカの青年は、アメリカやヨーロッパに比べてアフリカなどの途上国に対する日本人の関心の薄さに驚きつつ、「日本は繁栄の孤島のようだ」との印象を報告書に書いていました。
これらのアフリカの青年の言葉は、彼らと関わった日本人にとって驚きだったようですが、私にとっては予測できた言葉でした。国としてのアイデンティティの以前に、アフリカには部族としての絆があり、社会の基本は血縁です。親族のうち誰かが出世すれば皆が豊かになれるとの思いから、最も優秀な子供を進学させるため親族どうしで学費を工面することもよくある話です。同時に、不幸な親族や高齢者に対する支援や世話も当たり前です。事実、遠野市の農家に下宿したアフリカの青年たちが、言葉のハンディを乗り越えて、農家のお年寄りにいつも明るくお世話をしようと努力し、大変喜ばれていました。
第二次世界大戦で受けた敗戦のショックと国土の荒廃から立ち直った日本の戦後復興は、その経済的発展をもって「奇跡」と言われています。しかし、復興の起爆剤となった大きな要因が海外からの援助であったことはあまり知られていません。東海道新幹線や東名高速道路の建設、黒部ダムや愛知用水の整備などに費やされた莫大な世界銀行からの低金利融資とともに、ユニセフやガリオア・ララによる救援物資など、様々な機関からの援助を受けています。日本はこれらの海外からの援助を梃(てこ)として急激な経済発展を成し遂げたのです。
しかし、同時にそれは欧米追従型の発展ではなかったでしょうか。世界経済の中で発展していくには、同様な経済環境を整えることが必要だったでしょう。でも、経済の仕組みだけでなく、文化や価値観もずいぶん追従してきたように思います。
日本農業の主幹作物である米作は、八郎潟のように大規模稲作に転換したところもありますが、日本の農業規模に合わせたなかで耕地整理や機械化が行われ今日に至っています。農業は欧米との生産基盤の違いから追従が難しかった産業です。しかし、農業を支える地域の生活様式や価値観が変われば、農業そのものも変化を余儀なくされます。
昔から日本の農業は家族農業でした。家族を核として地域の「結」があったのです。それは、地縁・血縁によって結びついた相互扶助の絆です。田植えや稲刈りなどの共同奉仕だけでなく、道路や河川などの普請も役所だけに頼らず、村の寄り合いで解決してきた地域力がありました。地域力が家族農業を支えてきたと言えます。しかし今は、田植えや稲刈りも助け合うことはほとんどありません。
日本農業の転換期と言われ地方創生の必要性が叫ばれる今、発展の過程で失くしたものを取り入れた日本型農業を再構築するための「梃」が必要ではないでしょうか。その梃につながるヒントが、ここ皆生農園にあるような気がします。
(文責:大塚 正明)