第230話 死は怖いものなのか?

百姓雑話

恐らく、私も含め多くの人にとって死はとても怖いことであると思います。普段我々が考えている死というのは、病気等でだんだん体が衰弱し、心臓が停止、2度と自分というものを意識できなくなる状態になること、という感じではないかと思います。そもそも私が私と思っているものは脳の中で作り出されている自我であると思われます。これが死によって2度と私を認識できなくなるということです。

生物的には私は60兆個の細胞でできており、それらがそれぞれの機能を果たし、私を形作っています。その細胞達にも寿命があり、一番短い小腸の表皮細胞は1日で入れ替わるようです。細胞達の死によって、私は維持されているとも言えるわけです。脳の神経細胞はあまり分裂しないようですが、これが自我「私」の源としても、物質レベルで見れば、各種の反応が活発に起こり、短い周期で入れ替わっていると思われます。私は毎日約1kgの食事をとり、1リットル強の水を摂取し、体重が70kg弱でほぼ一定ですので、計算上は約1か月で自分を形作る物質は入れ替わることになります。自分というものは細胞や物質レベルで見れば、比較的短い時間で入れ替わっているということです。私達が日々、生命を維持するために口にするものは水や食塩を除けば、ほぼ他の生物です。他の生物は自らの命を私に捧げてくれ、私は命をつなぐことができ、自我「私」を持ち、生きている実感が持てている訳です。私が日々口にする食事、水、空気はほとんど偶然に取り込まれたものです。例えば昨日定食屋でかつ丼か、はたまたラーメンかと迷い、ラーメンを食べることを選んだ私はかつ丼を食べていたであろう私とは、物質的には若干異なる私であったわけです。

生命の歴史を見れば、今までに生存した生物個体のほぼ100%が現在は死んでいて、ほんのごく一部が現在を生きています。あるいは生物の種として今まで出現した種の恐らく大半は絶滅していて、現在生存している種はごく一握りと思われます。これまで生きてきた生物個体、生物種が皆生存していれば、地球はパンクしてしまうでしょう。我々が主要なエネルギー源として使用している石炭、石油といった化石燃料はみな生物の死骸です。このように、現在を生きる私は多くの死を前提に成り立っていると考えられます。

このように見てきますと、私は偶然に次ぐ偶然で今生きていることを実感できるのであり、物質的にはなんら不変的で確固たるものではないように思えます。そして死というものは身近で当たり前のものであり、そんなに怖いものではないのではないかと思えてきます。むしろ死に至る過程の苦しみや家族との別れの辛さを恐れているということの方が大きいのかもしれません。これはなるようにしかならないというか、生きている実感を持って生きられたことへの報いとして甘んじて受け入れるしかないのではないでしょうか。

いつ死が訪れるかは全く分かりません。多くの死、多くの生によって支えられていることに感謝をしながら、自我「私」がある限り、日々を一生懸命生きていくことだけだなぁ、と思うのであります。これがなかなか難しいことなのですが。ただ自我「私」が死んで、生物的な私は生きている時はどうすればよいのか?これはよくわからないのですが、そうなった時は多分何かに身をゆだねるだけでしょう。若輩者の戯言でした。

(文責:鴇田 三芳)