第247話 美田を残さず

百姓雑話

先月下旬から当地では雨の日が多くなっています。予報では、今日から1週間ほど秋雨前線が本州南岸に停滞し、しとしと雨が続きそうです。そんな中でも稲穂が黄金色に輝き、今週は稲刈りが最盛期を迎えそうです。

私の実家は大規模に稲作をしていました。子どもの頃は田植えと稲刈りの時期は学校を休んで手伝ったものです。そのためか、今の私は米作りをしていないものの、周囲の水田で稲刈りが始まると無性に嬉しくなり、明日の命が約束されたような気になります。このような思いにいたるのは私だけではないでしょう。

ところで、格言に「美田を残さず」というものがあります。米食離れと稲作農家の激減で、こんな格言は半ば死語になってしまったかもしれませんが、私にはとても意味深に思えてなりません。個人の生き方や家風にとどまらず、この格言は文明のあり方にも言及しているように思えるからです。

とかく人間は、何かを残そうとします。それは私的財産であったり、名声や名誉であったり、公共資産であったり、領土や領地であったりと、多岐にわたります。そのためには努力を惜しまず、苦悩し、時には人生の大半をそのために捧げたりもします。思い余って争い事を起こすことも珍しくありません。

何故こうも人間は何かを残したがるのでしょうか。人間以外の生き物で、このように残したがる生き物がいるのでしょうか。子孫をたくさん残す習性を除けば、身近な生き物にはこのような習性は見受けません。

「未来は過去の延長線上にある」と言われますが、これを真理と認めれば、未来にわたっても人間は何かを残すために命をかけることになってしまいます。

「人間の不幸の原因のひとつはこの残す習性にある」と私には思えてなりません。今から30年近く前、ある女子大生に頂いた「悲しき熱帯」(1955年、文化人類学者クロレヴィ・ストロース著)を読んでから、この思いがずっと心に引っかかってきました。

(文責:鴇田 三芳)