確か高校受験の頃、今から半世紀ほど前になりますが、「受験競争」という社会現象がありました。膨大な数の団塊世代が高校や大学に受験しはじめたためです。のちに、いっそう競争が激化し、「受験戦争」とまで言われるようになりました。「競争」という言葉は受験にかぎらず、社会全般にいきわたり、「競争社会」が定着して久しくなります。
小学生の頃いじめにあっていた私は、連中から逃れようと好きでもない勉強に力をいれ、高校は進学校に入学しました。しかし、そもそもの目的がいじめからの逃避であったので、勉強に熱がはいらず、競争につぐ競争の日々が心身に重くのしかかっていました。
その頃のトラウマからか、今でも私は競争があまり好きではありません。「できれば、競争を避けたい」という意識がつねに脳裏をかすめます。そのため、野菜の栽培でも他の農家が栽培しない時期に作付けることが多々あります。例えば、晩秋にブロッコリーの苗を植えると早春に収穫できるのですが、地元の農家は誰もこのような栽培はしていません。厳しい冬の寒さのために枯れてしまう可能性が非常に高いからです。
今から思い返せば、農民になった理由や理屈をもっともらしく口にするものの、もしかすると競争嫌いも影響したかもしれません。
もちろん、私は競争を否定しているわけではありません。他産業ほどではありませんが、農業という職業もやはり競争にさらされています。畑や原野では、植物が光をわれ先に受け取ろうと競って上へ上へと伸びていきます。私たちの体の中でも、外部から侵入する病原菌や内部で発生するガンなどの有害物を免疫細胞が休むことなく喰いつぶしています。生きるということ自体、競争と戦いの連続であり、喰うか喰われるかの世界です。
人間社会も同じような歴史をたどってきました。特に前世紀の終わりごろからは、資本主義や自由経済の名のもとにグローバリズムが生み出す競争は一層激しくなり、今や病的な様相を呈しています。いやな喩(たとえ)ですが、戦争なら「終わりの見えない消耗戦」です。たくさんの勤労者をうつ病や過労死、過労自殺に追いつめる社会が健全な社会と言えるのでしょうか。
過度の競争に歯止めがかからなくなり、アラブ世界ではすでに競争から戦いに移行してしまった国や地域があります。ヨーロッパでも同様に競争が闘争に変容しつつあります。そのような世界的な潮流がトランプ氏を次期大統領に押し上げました。いずれアメリカも闘争期に突入する可能性があります。
行き過ぎた競争は、寛容さを奪い去り、希望と未来を喰いつぶし、最終的には戦いへの道を突き進むことになるような気がしてなりません。
(文責:鴇田 三芳)