第264話 養豚場(2)

百姓雑話

表題のとおり、今回は前話の続きである。

生きた豚を見たことのない人のために、農家で育った私が豚に成り代わって、少しばかり豚の紹介をしたい。

「おれ達はなかなかの綺麗好きだ。にもかかわらず、豚舎はどこも汚い。狭苦しく、異臭を放つ。もちろん、すき好んで劣悪な環境に甘んじている訳じゃない。あくまでも、人間の都合だ。その人間自身は、小便を漏らしたくらいで、「人間性が傷ついた」などと嘆くのに、おれ達の生活環境にはまったく配慮しない。まるで、おれ達を生き物とは思っていないようだ。」

「目は、馬や牛と異なり、大きくはない。体の大きさに比べたら、かなり小さい目をしている。それでも、見ようによっては、なかなか愛らしい。」

「おれ達は多産だ。一度に10匹くらい産む。次つぎ産んで、どんどん太る。そして、あっという間に食べられちゃう。もとより、おれ達は人間に喰われようとして生まれて来る訳じゃない。天寿を全うしたいが、叶わぬ夢のまた夢なのだ。まさに、殺されるためだけに生まれてくる、悲しい十字架を背負った生き物だ。」

さて、養豚場や養鶏場などを冷静に見つめると、人間の行状や社会の暗部がいくつも浮かび上がってくる。例えば、民主主義が内包する根本的な矛盾、あるいはアメリカ合衆国の建国の歴史にもつながる問題も見える。

人類は、長い戦争の繰り返しから、民主主義という統治制度を手にした。腐敗しきった王制をフランスの民衆が打倒したことが発端である。その当時は理想と思えたものも、統治者の権力欲と民衆の怠惰で根幹が腐りはじめ、制度の矛盾が露呈してしまった。

養豚場や養鶏場は、その異臭のために、きまって田舎にある。それでも場所によっては、周辺が都市化され移住してきたサラリーマン世帯などの非農家の新住民が市役所や役場に異臭の苦情を持っていく。論理的に考えれば、すでに存在していた養豚場の周辺に移り住んできた「アンタの勝手」と、養豚場や養鶏場の経営者はそう言いたい。何も非難される理由はまったくない。ましてや、民主主義という数の論理で新住民から移転を迫られることなど言語道断である。しかし結局は、ほとんどの場合、数と権力とお金に屈服させられてしまう。

この新住民の行動はアメリカ合衆国がたどった建国の歴史とほとんど同じである。自由と新天地を求めて上陸してきたヨーロッパ人は、まず武力で侵略し、民主主義という数の力と権力と経済力で先住民を駆逐してきた。さらに、自国にとどまらずアメリカ合衆国は、その強大な軍事力を背景に、武力で他国の民主主義化を図ろうとしてきた。ベトナムで、ソマリアで、アフガニスタンで、イラクで、・・・・・・。これが、矛盾を内包する民主主義が行き着いた、ひとつの帰結である。

しかし、残念ながら、民主主義に優る統治制度を人類はいまだ見いだせていない。もしかすると、今や世界の隅々まで網羅しているインターネットが何か新しい統治機構を生み出すかもしれない。が、私は懐疑的である。

血塗られた人類史を冷静に直視すると、田舎の暗い豚舎の隙間からも世界的な政治の矛盾の一端がチラチラ見えてくる。

(文責:鴇田 三芳)