第329話 「わからない」ということ

百姓雑話

生まれたばかりの赤子は本能で生きている。周辺環境への認識力が徐々に発達するにつれて、他人の言動を積極的に真似始める。そして、言語能力がある程度発達すると、「どうして?」を連発する。わからないことだらけで、「どうして?」と問うことにためらわない。生きていくために必死なのだ。

世間では、今まさに受験シーズンである。人生を左右されかねない試験に知力を競う恒例行事である。もちろん、受験競争は今に始まったわけでもなければ、日本特有のものでもない。中国の隋の時代に始まった科挙(官僚登用試験)はあまりにも有名で、その影響が近隣諸国に伝わり、日本では大学受験という形で受け継がれている。聞くところでは、今でも中国や韓国での受験競争はきわめて熾烈で、日本の比ではないらしい。

受験勉強にかぎらず、学校教育は、必ず答えが用意してあり、「わからない」ということは否定される。「先生、そこ私わからない」などと生徒に言わせない。ただただ、知識を押し込む。その内容にいたっては、1000年以上も前の知識が含まれていて、大人になって必要な知識がどれほど含まれているのやら、はなはだ疑問である。

17世紀、フランスの数学者フェルマーは驚くべき証明を成し遂げたと書き残した、と伝えられている。いわゆる、フェルマーの最終定理である。中学校の算数で教わるピタゴラスの定理の延長にある定理である。ところが、このフェルマーの最終定理は本当に正しいかどうか360年ちかくわからなかった。その間、多くの数学者が答えのわからない難問に挑んできた。なかには、人生をかけて研究した数学者もいただろう。

このように、人は本来、「どうして?」とわからないことを知ろうとする。幼子を見れば、一目瞭然である。

しかし、日本の教育は、昔から記憶力に偏重し、体験や記憶したことを有機的に組み立て新たなことを考え出す傾向になっていない。そのような教育が、アメリカほどにイノベーションが日本で生まれない原因の一つであるように私は思っている。

教育は、人が持つ好奇心と探究心を押さえつけることなく、「わからない」ということを重要視し、わからないことがわかった時の喜びを子どもたちに十分体験させなければならない。

皆生農園には毎年3、4名の研修希望者が訪れる。そのほぼすべての人たちが、学校教育にすっかり順応していて、「知識を教えてもらう」という姿勢が顕著である。

何をするにも基礎的知識は不可欠であるが、見るもの聞くものの中に「わからない」ことを積極的に見つけ、「どうして?」と自問する習慣がなければ、とても新規に農業の道を切り拓けない。つめ込み教育に長らく馴染んできた人にとっては、この習慣をつけるには相当の時間を要する。

しかし、そうしないと、自ら課題を見つけ、自分の頭で考え、自発的に適切な対応をとる能力が育たない。私は、研修生に具体的な農業技術を伝えるとともに、この習慣が身につくよう徹底的に質問している。「君はどうすればいいと思っている?」とたびたび質問している。

(文責:鴇田 三芳)