第310話 生産革命

百姓雑話

近年の産業界の激変を新たな産業革命と見ている人たちがいる。確かに激しい変化の真っただ中にあり、巨万の富を築く人がいれば、その一方で職を失う人が世界中であふれている。

ところで、人類は生き抜くために必死に日々の営みを続けてきた。この絶え間ない営みを産業とは別の「生産」という視点から眺めると、現代社会が違う見え方をする。

人類は、その発生からずーっと長い間、おもに植物性の食べ物を採取し、わずかに小動物を狩り、自然界の中で細々と生きてきたようだ。マンモスのような巨大な動物を絶滅にまで喰いつくしたものの、総体としては植物と小動物を食べ常に飢えと背中合わせであったろう。長く続いたその時代で、今の人類が言うような「生産」らしきことはほとんどしてこなかったと想像される。

ところが、穀物を大規模に栽培するようになってから、人類は「生産」という概念を持ち始めたのではないだろうか。そして時代が下り、食糧以外の生産活動も増え、「生きていくためには、いずれにしても何か物を生産することが不可欠である」という意識を人類が持つまでになった。その意識は、蒸気機関の発明によって興った産業革命によって、ゆるぎない信念に格上げされ、なかば本能化されてきた。

そんな信念を揺さぶるような生産活動が第二次世界大戦の後に急拡大してきた。いわゆる「第三次産業」の台頭である。「サービス業」と呼んでもいいだろう。現代社会を席巻している「スマホ」にしても、その機械、つまり物に本質的な価値があるわけではない。ソフトとか、コンテンツとか、情報とかいう非物質に価値がある。機械は単なるパイプでしかない。だから、スマホの機械そのものを生産している業者はさして儲かるわけでもない。人の精神に働きかけそれを満足させる非物質を生産する人が巨万の富を独占し、物を生産する人は冷遇されるようになった。

このように人類史を生産という視点から眺めてくると、現代は新たな生産革命の時代であると見える。穀物の生産開始を「第一次生産革命」、産業革命を「第二次生産革命」そして、非物質の生産が世界にあふれている現代を「第三次生産革命」と言えるだろう。

第三次生産革命は、人間の肉体労働をとことん奪い去るだけでなく、従来から続けられてきた頭脳労働をも駆逐し始めている。

農業という生産活動の原点に身を置く私は、こんな社会現象を見るにつけ、深く考え込んでしまう。農業従事者は第三次生産革命にどう対処したらいいのだろうか。安穏と静観してはいられないだろう。

この先いったい、人は何を仕事とすればいいのだろうか。

はたして第三次生産革命はどれだけの人々に幸福をもたらすのだろうか。

(文責:鴇田 三芳)