元日は、激しい頭痛のために、3時頃に目覚めてしまった。今まで体験したことのないほどの激痛の中で、日の出まで思いをめぐらした。本当に長い数時間であった。
まず考えたのは、脳卒中である。「もしもそうなら、実にタイミングが悪い。病院は休みだ。・・・・・・・・・」 かつて姉が転んで脳出血で意識不明の重体になり、意識は回復したものの、きつい後遺症が残っている。また、親友が脳梗塞で緊急手術した。対処が迅速だったためか、幸い後遺症はないという。最近では、農家仲間がやはり脳梗塞を患い、命はとりとめたものの、少し後遺症が残ってしまった。それらが脳裏に焼き付いているためだ。まさに、他人事ではないのである。
次に考えたのが後継者の問題である。私が耕作している農地はすべて借地だが、地主の3戸の農家にはどれも後継者がいない。基本的には私が後継者を充てる義務はないものの、長年こころよく貸して下さった手前、道義的な責任を感じる。現実的に考えても、地主のうちの2戸は営農していないので、私が農地を返したところで後継者を育てることなどできないだろう。これも頭の痛い問題だ。
3番目に考えたのが「やり残し」である。40歳で脱サラ就農して以来30年ちかくたったが、まだいくつか未完のことがある。もとより、人生に完成という終わりはないのだろうが、できれば納得できる到達点にたどり着いてから死にたい。
最後に考えたのは、コロナ禍によって人類が直面している激変である。人類は、その類まれな繁殖力と知能と限りない欲望のために、そのテリトリーを拡げてきた。今風に言えば、グローバリゼーション。そのグローバル化がある限界点に達すると、人類は大きな災禍に見舞われてきた。それは、戦争であったり、大規模な植民地化であったり、疫病であった。スペインが中南米をあっという間に征服できたのは、彼らが持ち込んだ疫病であったという。北米もそうかもしれない。そして今まさに、白人種を中心にコロナ・ウィルスによって人類は強大な脅威に直面している。
さらに、もっと悲惨な状況を生むかもしれない問題がある。気候変動、温暖化である。この問題は、ボクシングにたとえれば、ボディブローのようなものである。この問題も、グローバリゼーションの産物である。
期せずして、二つの大きな問題が人類に激変を迫っている。私たちはこの激変に耐えられるのだろうか。理性を冷静に保てるのだろうか。
(文責:鴇田 三芳)