国民の半数以上の反対を押し切って、東京オリンピックが始まりました。開催の賛否を問われると、私は返答に迷ってしまう。開催すれば、どう対策しても、コロナ患者の増加に拍車をかけることは想像に難くありません。
しかしその一方で、中止されれば、この一瞬をめざし人生の大半を捧げてきた多くの選手たち、彼らを育て支えてきた更に多くの家族や指導者・応援者、大会関係者などは心に深い傷を負ってしまう。特に選手は「人類的な危機だから仕方ない」などと簡単に受け入れられるものではないでしょう。選手は、自らに厳しい試練を課し、多くの競争相手に打ち勝ち選ばれたエリート。それこそまさに「選手」なのですから。
私は、その選手たちに自分を重ね、過ぎ去った人生を振り返ってみました。
私が初めて自分の人生を積極的に選んだのは、会社員を辞めた29歳の時でした。もとより誰もが親や家族を選べるはずもまく、育った環境も選べません。若くして自ら親元を離れ独立する道を選ぶ若者がいますが、それは極めて稀なケースです。やはり多くは20代から30代にかけてでしょう。
ところが、オリンピックに出場するような一流のアスリートは遅くても10代、早い人では物心ついた頃には人生の重要な選択をしたことでしょう。そして、その後の努力によって、選ばれた人たちです。まるで、求道者のようです。その長年の努力が一瞬の輝きを発した時、見るものを感動させるのでしょう。
1985年から翌年にかけアフリカのソマリアで暮らした私は、「選手」という呼称に特別な思いを寄せています。公共の電気も水道もガスも、もちろん電話もない難民キャンプ。エチオピアから逃れてきた難民を支援する活動に携わったのですが、チームリーダーのK氏は、メンバーの日本人に対し「●●さん」とか「●●くん」とか呼ばず、誰にでも「●●選手」と呼びかけました。その呼称に初めの頃は違和感を抱いたものの、時が経つにつれて、その呼び方の意味深さを想像できるようになりました。普通に日本で暮らしてきた者にとっては地獄のような難民キャンプに自ら志願してやってきた若者に対して、たぶん彼は彼なりの敬意を払って「選手」と呼んだのでしょう。
(文責:鴇田 三芳)