この近辺でも稲刈りが始まった。私は、穀倉地帯で生まれ育ったため、たわわに実った稲穂を見ると溢れんばかりの豊かさを感じる。パンや麺類などの小麦加工品をほとんど食べない私にとって、米こそが命の糧だ。
ところで、豊かさを画一的に認定・規定するのは難しい。そもそも豊かさは相対的なものであり、それを感じる状態や状況は、人それぞれの境遇や価値観、あるいは地域によって、時代によって、異なるからだ。例えば、産業革命以前であれば、まずは食べ物を口にできることに人類の大部分は豊かさを実感したに違いない。しかし、現代の先進国においては、単に食べられることだけで豊な気分になれる人の割合はかなり低いと予想される。
食べ物を容易に入手できるようになった戦後の日本でも、それなりの最大公約数的な豊かさを人々は認識してきた。例えば、お金や資産がたくさんあるとか、生活に必要な物が十分あるとか、おいしい食べ物を食べられるとか、副交感神経を優位にしてくれる家族や友人がいるとか、心地よく没頭できることがあるとか、時間と心に余裕があるとか、・・・・・・・・。
このような状態を参考にして、「今の日本は豊かな社会なのだろうか? 自分は豊かな人生を送っているのだろうか?」などと、ときどき考えることがある。読者の方々も同様かもしれない。
そんな時、「日本の豊かさも限界にきているのかな」と私はこの頃思える。
OECDのデータをもとに全労連が集計したところ、バブル経済が崩壊した1990年代後半から日本人の実質賃金は下がり続けてきた。先進各国は軒並み上昇してきたにもかかわらず、日本だけが取り残され、今や韓国にも抜かれた。くわえて、所得格差は拡がる一方だ。
こんな経済状況では、大多数の日本人、とりわけ若い世代は経済的な豊かさを実感しずらいのではないだろうか。婚姻率の低下と少子化が進み続けているのも、経済的に貧しくなっていることが原因だと指摘されている。
物についての意識も、若い世代は高齢者とは異なるようだ。大部分の若者世代は、生まれた時から多くの物に囲まれ食べ物に困ることもなく、古い世代が必死に働き追い求めてきた豊かさをなんなく享受できた。そのためなのか、生活品や食べ物が十分あっても、古い世代ほどそのような状態に豊かさを感じていないようだ。私は現在68歳だが、就職してまず買ったのは車だ。私の前後世代では、ごく普通の行動だった。しかし、今の若者世代では、とくに車などなくてもいいと考えている人が多いらしい。
総じて、若者たちの多くは、お金にも、物にも豊かさを見出していないようなのだ。
そんな若者世代の心の内を推察すれば、副交感神経を優位にしてくれる家族や友人がどれほどいるのだろうか。精神的にも肉体的にも寄り添える人が身の回りにどれだけいるのだろうか。おそらく、古い世代よりも少ないだろう。
結局、その孤独を癒すため、満たされない欲求を満たすため、スマホの中に没入しているのではないだろうか。スマホというバーチャルリアリティーの中に、ある種の豊かさを探し求め、見つけ出しているのかもしれない。
(文責:鴇田 三芳)