第363話 昆虫食(2)

百姓雑話

1977年から1988年にかけて、エチオピアとソマリアの間でオガデン戦争が勃発し、数十万人の難民がソマリア領内に避難してきました。私が所属していた民間救援団体もソマリアのルーク地区で難民救援を始め、私も1985年から翌年にかけて活動しました。彼ら難民は、6畳ほどの土間に小枝で骨組みを造りそれに布をかぶせただけの小屋に住み、粗末な配給食糧だけで命をつないでいました。そこで私は飢餓を体験しました。

例えばこんなこともありました。食糧配給の際、小麦粉が地面にこぼれた瞬間、多くの子どもたちがそれを奪い合いだしたのです。もはや、小麦粉を集めるというよりも、小麦粉の混じった砂をかき集めるような状態です。彼らは、それを水に入れ土砂を沈殿させ、上澄みを煮て飲むのです。栄養などほとんどなくても、空腹は満たしてくれます。

そんな最中の1984年、エチオピアで大飢饉が発生してしまいました。100万人ほどが犠牲になったと言われています。干ばつのために農作物の収穫量が激減したため、作付け用の種までも食べつくし、毒のある野草やその根さえも食べたとのことでした。いざとなれば、人は何でも食べるのです。

大飢饉の数年後、仲間がここでも活動していたので私は視察に行きました。国際社会からの援助によって状況は改善しつつありましたが、干ばつの前には豊かな実りがあった農地が荒野になっているのを見るにつけ、飢餓の深刻さが容易に想像できました。

1972年10月にこんな事件が起きました。45名を乗せた旅客機がアンデス山脈の高地に墜落し、絶望と飢餓にさいなまれた生存者は亡くなった人たちを食べたと、救出後に生存者が明かしました。極限の飢餓に直面すると、人間は人間も食べるのです。

かつて、ワールドウォッチ研究所を設立したレスター・ブラウン博士が著した「だれが中国を養うのか? 迫りくる食糧危機の時代」( 今村奈良臣訳  ダイヤモンド社 1995年刊)を読んで私はいたく同感しました。それは、上述のような飢餓の状態を私は体験してきたからです。

私の母は食べ物に困らぬよう農家に嫁いできました。その母から、戦中戦後の食料難のことを何度か聞かされました。ど田舎にあった我が家にも食料の買い出しに東京から多くの人たちが訪ねてきたそうです。しかし今から思えば、農家の我が家も貧しい食生活でした。食の足しにと、私は高校に入る前まで川や水田でよく魚を捕りました。もちろん、昆虫のイナゴも食べました。そのためか、私は昆虫食にまったく抵抗感がありません。

いずれにしても遅かれ早かれ、昆虫食は実現すると私は実体験から確信しています。それはたぶん、中国から普及すると予想していますが、・・・・・・・・・。

(文責:鴇田 三芳)